別府 「見遊自編(みゅうじあむ)」に掲載
別府 「見遊自編(みゅうじあむ)」に掲載されました。
~別府まるごと温泉博物館~
熱い温泉を掘り当てる、熱~い男達の大仕事
7回にわたって紹介してきました別府の温泉シリーズ。いよいよトリを務めますは、温泉といえば彼らの存在がなくちゃはじまらない、温泉を掘り出す男たちのお話しです。
そこで訪ねたのが、明治の後期から温泉掘削の専門会社として、100年近い歴史を誇っている大塚ボーリング工業さん。亀の井ホテル、日名子ホテル、白雲山荘、豊泉荘など数々の温泉宿の掘削を手がけ、観光地として発展を遂げてきた別府温泉の歴史とともに歩んできた会社といえます。
大正6年、朝見神社参道の白滝温泉引湯工事。
同社によると、当初の温泉は「手突き堀り」と呼ばれる手法で掘られていました。この手法は、自然に湧き出している温泉の周辺を20~30メートルほど掘りながらすすめていくもの。
ちなみに、ここで用いられたパイプは「竹管」とよばれ、なんと竹で出来ていました。苦竹を火であぶって真直ぐにし、中の節をくりぬいて何本も繋げた竹管の中に、先端にノミをつけた竹ヒゴを通して掘り進めていったのだそうです。別府の竹文化は有名ですが、こんな所にも竹のしなやかさと丈夫さが活かされていたのですね。
この手突き堀りをする人夫たちのことを、当時は「湯突きさん」と呼んでいました。
「そん頃は湯突きの歌があってな、唄いながら作業しよったそうや。♪巻いて取るのは糸屋のネエチャン・・・・とか、よう意味はわからんけ(笑)調子合せなんやろうなぁ」(三代目社長の大塚隆司さん)
大正末期に撮影された掘削工事現場の写真。デッカイ仕事を終え、湯突きさんの達の顔も満足げです。
手突き堀りに続いて現れたのが、水車を使った「上総(かずさ)堀り」です。湯突きやぐらとしう足場を組み、そこに大人の男が二人は入れるほどの大きさの水車を作ります。水車には竹ヒゴが巻かれていて、その中を歩くと竹ヒゴが上下して水車がウインチがわりになる仕組み。男4人がかりで呼吸を合せながらの作業は、腰に負担のかかる大変な重労働でした。
湯突きやぐらの設営工事。中央に大きな水車が見えます。
温泉掘削には、数々の苦労や思いがけないトラブルも多いものでした。
たとえば別府の市街地は温泉にたどり着くまでが浅いので竹ヒゴで十分だったのですが、山の上の地獄地帯をほるときはそうはいきません。固い岩盤や地熱で竹ヒゴが煮えてしまうし、ノミもすぐにガタガタになるので毎日取り替えていました。また、市販の専用器具がなかったので、ボルト1本からハンマーまで、すべてが手作り。痛んだ器具を修理するため、職人たちは鍛冶屋の技術も習得していました。
もちろん当時は電動式ではなく、現場の男たちも限界ギリギリの体力勝負。地下の温泉を引き上げるにはかなり大きな力が必要だったため、水車の中を全力で人が走って巻き上げていたといいます。
「高さ20メートルのやぐらを地下水がプワーッと突き抜けて吹き上がったり、100度近くの噴気が突然湧いてきたり、それゃあもう怖がりはすぐに逃げ出しよった。自分と弟の勝之(現・専務)は、親父と一緒やったけん、休みたくてもそうはいかんかったんよなぁ(笑)」
昭和12年当時の鶴見付近。ちょっと不思議な光景です。
やがて機械化が進み、現在は油圧式ロータリーとなって、当時に比べれば、ずいぶんと作業も楽になりました。
昭和37年、かなり近代化が進んできた段階の掘削工事現場。
「別府の温泉は熱め」とよく言われますが、その温泉を汗と気力と体力で掘り当てた、これまた熱い男たちが、いまの別府温泉を支えていたのです。
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